連載2019.10.09
7月17日に亡くなった岩倉榮利氏(享年71歳)は、50年にわたる活動を通じて日本のデザイン界にかけがいのない足跡を残した。従弟にあたるデザイナーの岩倉秋夫氏(66)は、ROCKSTONE専務取締役、岩倉榮利造形開発研究所の代表取締役を務める。岩倉氏のオリジナルブランド「ROCKSTONE」の立ち上げから関わり、40年を超える仕事の歳月を共に過ごした。
「子供の頃から、僕が住んでいる宇都宮に、休みになるとよく遊びにきていた」と秋夫氏は岩倉氏を懐かしむ。
「人懐っこい性格は、子どもの頃から変わっていない。人を喜ばせることが大好きで、細やかな気配りをしていた。仕事もそうだった」
1981年、デザイナーズショップ「ROCKSTONE」は、渋谷のパルコ・パートⅢのオープンとともにこつ然と現れた。岩倉氏はその前年の80年、インテリアブランド館として計画されたパートⅢの顧問に抜擢され、デザインから店舗決定までの責任を負った。ところが3階エスカレーター前のテナントだけが埋まらず、オリジナルブランドを立ち上げて店舗を開くことになった。デザイナー自らのブランド立ち上げは、当時は珍しかった。
「自由が丘の喫茶店で話していた時に『名前なんにする』という話題になって、岩倉だからROCKだよね。僕は学生の頃からバンドをやっていたので、そういえばThe Rolling Stonesってあるよね。ゴロがいいから、それでいこう(笑)ということでROCKSTONEになった」
岩倉氏はチェア「KARAS」「KAMUI」「KABUTO」の3Kシリーズをこのブランドから発表して好評を博した。ほかにも「商品になっていないが、とんでもない構想がいっぱいあり、結構ハードなことをやっていた。バブル真っ盛りでなんでもありのパワーあふれる時代だった」。特に家具に使われたことのない素材に興味を持っていたという。「人が既にやっていることには情熱が湧かず、やっていないとむくむくと興味が湧いていた」
「作品は『こんなのがあったら面白いよね』というイメージからまず始まる。ある時、ものすごく薄くて、きらきら光る素材を椅子に使おうということで探し当てたのがパラシュートだった」。ところが、ホテル客室に選ばれた際、防炎規制をクリアできず「シルバーメタリックで燃えないものがないかと探し出したのが消防服だった。この素材を使って200脚の椅子を納めた」。東レの依頼でつくったカーボンファイバーの椅子も、「今までなかったものをつくる」挑戦的な姿勢の中で生まれた。
岩倉氏は多くの地域プロジェクトを手がけた。新潟県加茂市との桐家具の再生「加茂トラディショナルウッドジャパン」、芝家具の伝統を受け継ぐ東京のメーカーの職人たちとのコラボレショーンによる「都美(tobi)」、奈良県十津川村の林業・木材産業の再生を目指した「TOTSUKAWA LIVING」などがある。
国や地域、組合の補助事業の依頼があったときに岩倉氏はまず「最低10年は一緒にやってください。だったらやります」と話していた。秋夫氏は「彼はぱっとお金(補助金)を使って、ぱっと終わるのが嫌だった。自分がきっかけをつくり、時間が掛かってもいいから、半歩でも1歩でもいい方向に向くようにしたいと話していた」という。
「彼がROCKSONEの最高顧問デザイナーであることは永遠に変わらない。ROCKSONEブランドはもちろん、腰を落ち着けて長くやろうとしてきたことを受け継いで行きたい」と秋夫氏は静かに話した。
岩倉氏は2017年11月にすい臓がんと診断され、その入院の最中に、デザイン活動50年の軌跡をたどる展覧会「岩倉榮利の世界~本能のデザイン~」の開催が決まった。同じころ母校であるICSカレッジオブアーツ校長の話が持ち上がり、岩倉氏は今年4月の就任を決意した。それから自宅療養を余儀なくされるまで、病魔と闘いながらICSの教育に専念した。
「後進を育てる気持ちは、ずっと前から彼の頭の中にあった。そこに貢献したいという思いは強かった。自分の体が衰弱しているわけだから、普通は引き受けないと思う」。最後まで岩倉氏は後進に何を残そうしたのだろうか。
(続く)